かなりの情熱家だった「吉田松陰」
幕末動乱期、後に明治維新を打ち立てることになる多数の門下生を輩出したことで有名な「松下村塾」、そしてその師「吉田松陰」。
自らを「狂愚」と名乗った松陰
自分を「狂愚」と捉える考え方は、社会に対する絶望の表現である。社会をどんなに批判しても社会は、馬耳東風で動こうとしない。逆に、頭がおかしいと扱われる。
若い頃から「狂って」いた
吉田松陰先生は東北へ学ぶために旅行の計画を立てましたが藩からの許可がなかなかおりず、一緒に行く友人との約束の日を守ることを優先し脱藩したそうです
当時の脱藩といえば、見つかれば死罪です。
いくら目的が東北の海防調査という意義深いものとはいえ…。
旅行の約束をした親友・宮部鼎蔵(みやべていぞう)も正直ドン引きしたと思います。
勢い余って黒船に乗り込む
吉田松陰は安政元年(1854)3月、弟子の金子重之輔(重輔・かねこしげのすけ)とともに、再来したペリー艦隊の黒船に密航を企てます。
特に周到な計画も立てずに、盗んだ小舟でアメリカ艦隊に横づけし、黒船のデッキに乗り込みます。
牢屋へ入れられても全然めげない
ちなみに松蔭は、生涯で何回も牢獄に入れられていて、最終的には前科5犯です。
弟子に心配されても聞く耳を持たない
目に余る松陰の過激っぷりに、松下村塾の弟子たちは心配。「先生ちょっと落ち着け」と血判状まで出して諭すのですが、そんな心暖かい弟子が生ぬるいと映ったのか、松陰は激昂し、弟子との絶交を決意します。
そして、潔く死刑に
「いよいよ首を斬る刹那の松陰の態度は、実にあっぱれなものであった。悠々として歩き運んできて、役人どもに一揖(いちゆう)し、“御苦労様”と言って端座した。その一糸乱れざる堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した」
「小生、獄に坐しても首を刎ねられても天地に恥じ申さねばそれにてよろしく候。」
~僕は、獄に繋がれても、斬首の憂き目にあっても、天地神明にかけてこれまでしたことには恥じることはないので、わかっていてくださいね~
「狂う」ことで常識を打ち壊す